キラリと光るキラっ人さん

キラっ人さん紹介

女性杜氏として夢中で走り続けた20年 夫婦二人三脚でおいしいお酒造りを極めたい

  • 林 ゆりさん(鶴乃江酒造株式会社)
  • はやしゆり
  • 鶴乃江酒造株式会社 セールスエンジニア(酒造1級技能士)

1996年、東京農業大学農学部醸造学科を卒業後、自分でお酒を造ってみたいと実家の鶴乃江酒造に入社。翌年、女性が造った女性におすすめのお酒「純米大吟醸ゆり」を発売した。結婚後も女性杜氏として仕事を続け、現在は、洗米と蒸米を担当しながら夫・向井洋年さん、杜氏・坂井義正さんらと共に全力でおいしいお酒造りに取り組んでいる。

女性が造る女性におすすめのお酒『ゆり』

 江戸時代から続く酒蔵の7代目の長女として生まれました。父と同じ東京農大醸造学科に進学したのは、後で蔵の役に立てるかもしれないと思ってのことです。1996年3月に卒業して、4月に実家に就職しました。半分親孝行のようなつもりでした(笑)。同じ年に、「女性が造る女性におすすめのお酒」というコンセプトでお酒を仕込むことになりました。今思えばまさに人生最大のチャレンジでした。私が描いたお酒のイメージは、口当たりが良くてお酒が苦手な方やビギナーさんでも飲みやすい純米大吟醸。県産と地元にこだわりたかったので、酵母は福島県の「夢酵母」。酒米は、地元会津産の「五百万石」を使いました。女性向きだから甘口がいいかなと思って仕込んだら以外にも辛口で…。生き物である菌を扱う酒造りの難しさを痛感させられました。純米大吟醸『ゆり』と名づけたお酒を持って試飲即売に行くと、うれしいことに「飲みやすい」と言ってくださる女性が多くて救われました。以来、『ゆり』は、洗練を重ねてすっきりした辛口に仕上げています。

“女性杜氏”と言われることに反発した時期も

 昔、女人禁制とされていた酒蔵に入ることに抵抗はありませんでした。すでに杜氏の資格を取った母が働いていましたし、卒業した醸造学科も3分の1が女子。学外実習に行った新潟の蔵元は、女性初の酒造1級技能士を取得した女性杜氏さんがいる蔵でした。ほかにもたくさんの女性が働いていました。1996年から1998年まで、2期生として母も通った福島県清酒アカデミー職業能力開発校に入学しました。5期生の女性は、私を入れて2人。実習先で惜しげもなく技術を教えてくださる蔵元さん、県ハイテクプラザ会津若松技術センターの先生、同期の皆さんとのその後の交流も含めて考えると、とても濃密な3年間で、今でも感謝しています。その後蔵で働きつつ酒造1級技能士を取得し、以来、女性杜氏として紹介されるようになりました。しかし、蔵での私の立ち位置は、洗米と蒸米を担当する一蔵人。そんなこともあって、女性杜氏と言われることに対して素直になれなかった時期もありました。女性杜氏が試飲即売のために外に出るってどうなの?蔵で仕事をしていた方がいいのでは?と、悶々とする日々。吹っ切れたのは、首都圏の大手デパートのベテラン販売員さんの言葉でした。「ゆりちゃんのお酒を売ることは、ゆりちゃんにしかできないんじゃないの?」と、言われてハッとしましたね。造って満足しているだけではだめ。広く伝えて、おいしく飲んでいただかなければ意味がないんですよね。

「私が私が」ではなく、一歩下がって周りを見る

 女性杜氏の先輩として母から教わったことでいつも意識しているのは、衛生面です。目に見えない微生物相手の仕事なので、母はまず布類の掃除に力を入れたと言っていました。徹底した衛生管理。きれいな麹造りが、現在のきれいな甘みのある優しい口当たりのお酒に繋がっています。入社したばかりの頃の私は、とにかく無我夢中で、大学や清酒アカデミーで勉強したことを生かしたいあまりに数字にこだわり、意見したこともありました。考えてみれば、微生物の発酵はデリケート。設備の違いや気象条件などでも変わります。毎日の洗米も、同じお米なのに気温も水温もお米の温度も異なるので吸水時間も秒単位で変わります。同じようにやっているのに同じじゃない。そこに気づいてからです。「私が私が」ではなく、一歩下がってまず周りがどうしたいのかを考えるようになりました。蔵人の結束が良いお酒に繋がっていくので、以来「和醸良酒※1」を肝に銘じています。

夫と義父母の理解に感謝

 夫は大学の同級生で、卒業後、二人で鶴乃江酒造に入社しました。彼は、4年半働いた後、当社を辞めて千葉の実家に戻り会社員になりました。それから付き合い始めて2003年に結婚しました。私は『ゆり』もあるので、結婚後も冬になると夫の車で千葉から会津の実家に帰省してお酒を造り続けました。結局、今の私があるのは、夫が私のやることを認めてくれたことが大きいです。もう一つは、義父母の理解とサポートがあったからこそ続けてこられたと思っています。千葉と会津の往復を続けて4年くらい経った頃、酒造りを継ぐと思っていた弟は酒造以外の仕事に就きました。私の酒造りは、弟が後を継ぐまでの中継ぎみたいに考えていたので青天の霹靂でした。夫婦で約1年かけて考えて2008年に二人で会津に引っ越し、それからは、夫と二人三脚で酒造りをしてきました。

守りに入る私。ガンガン行く夫

 私も夫もお酒が大好き。飲みたいお酒に向かって急がずじわりじわりと改革を進めてきました。成果が出てくると父も蔵人さんたちも認めてくれるようになりました。今は、酒質を決めるのも、販売先を決めていくのも夫が中心になっています。夫の一番の功績は、瓶詰前の利き酒です。夫の舌を通ったものだけが商品になっていきます。努力の甲斐あって2015年には、日本酒の世界一を決める品評会「SAKE COMPETITION」純米大吟醸の部で『会津中将』純米大吟醸特醸酒が1位に輝いたときは、本当にうれしかったですね。私は蔵の娘という立場もあって、後世に蔵を残していきたいので守りに入りがち。その点、夫はガンガン行きます(笑)。それでバランスがとれているのかも知れません。
 今、酒蔵のスタッフがとても充実して、すごくいいお酒ができています。需要も伸びてきているので、まずレギュラー商品を安定供給していけるような体制を整えたいと思っています。同時に、この味を守れるよう働きやすい職場環境を維持していきたいと思っています。結局、お酒は1人で造れるものではなく、みんなの力があってこそのものなので。
 私がお酒を造るようになって今年で20年になります。可能性の塊のようなものづくりの世界は、奥が深くて知るほどにその奥を覗いてみたくなります。酵母を変えるだけで香りが変わるお酒。お米を変えても、精米歩合を変えただけでも酒質が変わります。努力した分だけお客様の反響が見えてくるようになったので、さらに極めていきたいと思っています。(2016年2月取材)

※1「和醸良酒」・・・和は良酒を醸す、良酒は和を醸す

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